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chirolin
のめりこんだり、他のジャンルに浮気したり、色々ありましたが、クラシック音楽はいつも生活の通奏低音のような存在でした。付き合いの年月だけは多少あるので、記憶に残る演奏などを少しずつご紹介できれば、と考えております。よろしくお願い致します。
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音の記録(9) [2008年09月15日(月) ]
 アメリカのベル研究所でも、ステレオ録音の実験が行われていました。ここでは1931年頃より、2つのカッター・ヘッドを近接させ、縦震動にて同心円状に2チャンネル分の録音を行うという方法がとられていました(音溝は2本)。当時フィラデルフィア管弦楽団のホーム・グラウンドだったアカデミー・オブ・ミュージックにマイクを設置し、電話回線によって研究所まで電送して録音したとのことで、ストコフスキー/フィラデルフィアの演奏が数多く含まれているようです。この研究は、その後1本溝に45/45方式で録音するところまで発展しているので、この研究成果がアメリカで商品化された時のステレオ・ディスクに(カッター・ヘッドはウェストレックス社製)技術継承されたものと思われます。
 
 一方、変わり種として、クックを挙げなければなりません。エモリー・クックはモノーラル時代に「レイル・ダイナミックス」(SL録音のはしり)などのハイ・ファイ・レコードで話題を呼んでいましたが、1952年秋にアメリカのオーディオ・フェアで「バイノーラル・レコード」を発表します。これはレコード盤を外周部と内周部で2分割し、外側にLチャンネル、内側にRチャンネルを録音するというものです。当然再生にも2つのカットリッジが必要で、双頭の専用プレーヤも開発されていました。これも、完全な再生は困難だったでしょう。
 
 本格的なレコードのステレオ化に際し、障壁となったのが規格の問題です。歴史の中ではままあることですが、イギリス・デッカによるV/L方式と、アメリカ・ウェストレックス陣営の45/45方式が対立してしまったのです。両方式の公開試聴会なども開かれ、最終的にモノとの互換性や将来性などの点で45/45方式が勝ると判断され、RIAAはこれを統一規格とすることを打ち出しました。これを受けたイギリス・デッカの態度は、誠に立派でした。彼等は、業界の秩序を維持するために、自分たちのV/L方式を潔く引っ込めたのです。
 
 ステレオ・レコードを作るためには、当たり前ですが、ステレオ録音された音源が必要になります。テープ・レコーダーのステレオ化はレコードに先行して行われていました。技術的には、ヘッドを複数にすれば良い訳で、ディスクのカッティングよりは容易だったのでしょう。レコード会社の中には将来を見越し、1953-1954年頃よりステレオでの録音を開始しているところもありました。(ドイツには、1944年頃のステレオ録音が存在しています)
 アメリカでは、1954年に録音済みのミュージック・テープ(もちろんオープン・リール)が発売されています。つまり、音楽ソフトのステレオ化は、レコード(1958年から)よりテープの方が早かったわけです。
Posted at 15:46 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(2)

音の記録(8) [2008年09月13日(土) ]
 1881年8月、パリにて電気博覧会が行われました。この時、オペラ座から博覧会会場までの3kmの距離を電話回線で結び、カーボン・マイクと受話器による実況中継が行われています。これはあくまでも電話電送システムのデモンストレーションだったのですが、より多くの人に同時に聞かせるために、オペラ座の舞台には多数のカーボン・マイクが並べられました。実験中、2つのレシーバーを両耳にあて、別々のマイクから電送されれて来る信号を同時に受信すると、ステージ上の歌手の位置や動きが判るということで、センセーションを巻き起こしたと言われています。私の知る限り、人工的な機械を通じてのステレオ効果が確認された最初のイベントです。もちろんこれはリアルタイム電送であり、録音されたわけではありません。

 ステレオ録音の歴史も、実はエディソンまで遡ることになります。彼のイギリスでの特許出願の際には、「同時に発言した4人の声を1本のシリンダーに録音する」というアイディアが記述されていたそうです。これは音溝が4本出来るという意味だと思いますが、今で言うマルチ・トラック・レコーディングのことです。また、1910年パリでの「音の展覧会」では、ディスクの両面に刻まれた音溝を2つのサウンド・ボックスで同時再生し、ステレオ効果を得るというシステムが出品されました。しかしながらこれらは、あくまでも参考出品に止まるものであり、実用化されることはありませんでした。両面の同時再生など、スタート・タイミングと回転速度が完全に同期しないと音楽にならないわけですから、まともな再生は困難だったろうと思います。

 1本溝に2チャンネル分の情報を刻むという、実用化されたステレオ・ディスクの原型は、アダム・D・ブラムライン(1903-1942 写真)によって発明されました。イギリス・コロンビアの天才的技術者で、VL方式(縦震動と横震動とで2チャンネル化)と45/45方式(音溝の左右の壁で2チャンネル化)の両方を発明しています。ちなみに後者の音溝は、その後のステレオ盤と全く同じものになります。1933年頃にはカッター・ヘッドが試作され、かなりのテスト録音が行われたようなのですが、当時のSPというフォーマットの中では問題点も多く、結局商品化には至りませんでした。残念ながら、この音を私は聴いたことがありません。
Posted at 11:37 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(0)

音の記録(7) [2008年08月24日(日) ]
磁気録音の原理そのものは古くから考案されており、ワイヤー・レコーダーなどというものもありましたが、テープを用いた高音質のレコーダーの実用化が最も早かったのはドイツでした(マグネトフォン)。戦時中のドイツの放送局より流される音楽から、SPレコード特有のスクラッチ・ノイズが聞かれないのはどういうわけか、ということが他国の技術者間で話題になっていたそうです。

戦後、連合国側がこのドイツからマグネトフォンの実物や技術資料を押収し、民間企業にテープ・レコーダー開発を呼びかけます。それに応じて、1946年に第一号機を開発したのがアンペックス社でした。このテープ・レコーディングが実現したということも、レコードの歴史にとって大変重要なことです。これにより、編集による不満箇所の差し替えや、オーバー・ダビングが容易となるばかりでなく、機材の起動力が高まり、スタジオやホール以外での録音も可能となります。こういったことは主に制作者側のメリットですが、テープ・レコーディングとLPレコードは、切っても切れない関係にあります。また、「マスター・テープを作る」段階までを内製化し、カッティング以降のプロセスは大手に委託すると考えれば、小資本のレーベル運営の道も開けるわけで、実際LP時代に入った米国では、マイナー・レーベルが続々と誕生することになります(もっとも今では、個人でCD−RやDVD−Rが作れるようになってしまいましたが)。

 コロンビアのLP開発成功に大変ショックを受けたのがRCAビクターで、他社が次々とLPを採用し始めるのを横目に、別途対抗策として、45回転のEP盤(Extended Playing)をぶつけて来ます(1949年)。これは、速度の対決などと言われましたが、結局はRCAもLPを発売し、コロンビアもEPを発売することで、ダフル・スタンダードとなって行きます。クラシックの長い曲では明らかにLPに優位性があり、ポピュラー系にはEPが向いている、ということで双方に長所があったわけです。話は脱線しますが、LPの回転数は33&1/3と大変半端ですが、これは1巻12分の映画用フィルムを映写する間にレコードを400回転させるため(400÷12=33.33・・・・)という話を聞いたことがあります。事実だとすれば、この決定はLP開発以前になされていたものと思います。失敗に終わったRCAの長時間レコードも同じ回転数だったからです。
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音の記録(6) [2008年08月17日(日) ]
 英国では1931年にHMV(グラモフォン)とコロンビアが合併し、EMI(Electric and Musical Industries)が誕生します。ただ、EMIというのは大きな管理会社として機能しており、ふたつのレーベルや会社の下部組織などは従来通りの活動をしていたようです。
 
 この1931年という年には、米国でも新しいレコードが開発されました。RCAビクターによる長時間レコードがそれです。しかしながら、回転数を33&1/3に落とし、ヴィクトラックという新素材を用いたこの商品は、短命に終わってしまいます。音質の悪さとレコード盤の耐久力のなさが、致命的な欠陥となっていたからです。またこれは、既発のSP盤のダビングだったため、原盤の面の変わり目で何度も中断があったようです。この長時間レコードは、日本でも発売されていました。広告の載っている1933年11月新譜の告知ポスターを貼付します(掛け軸のような作りになっています)。
 

 今日のフォーマットとしてのLPレコードは、1948年に米コロンビアから発売されました。LP開発プロジェクトの陣頭指揮をとったのが、ウォーラースタイン(その時の米コロンビア社長)ですが、実は失敗に終わったRCAの長時間レコードの生産中止を決定したのも、この人でした。長時間レコードに対して並々ならぬ意欲を持っていたウォーラースタインは、RCAで何故失敗したのかを一番理解していたはずで、コロンビアに移り、その経験を踏まえて夢を実現したわけです。米コロンビアでのLP開発プロジェクトは、次の3つの課題をクリアすることを目標としていました。
1. 低速度(毎分33&1/3回転)で安定走行するプレーヤーの開発
2. 低針圧ピックアップの開発
3. ビニールを素材とした軽量で壊れにくく、細かい溝を忠実に記録し得るディスクの開発
これを見て、「重要な課題が漏れているのではないか」と思いませんか? これらの問題が解決されたとしても、それだけでは長時間レコードが普及したかどうかは疑問です。何故ならば、素材や音質は良くなったとしても、録音面での問題が残るからです。即ち、アーティストにとって(或いは録音技師にとっても)20分以上もの音楽をノーミスで演奏しなければならない、というのは大変なプレッシャーになります。SP時代のレコーディングはいわゆるダイレクト・カッティングですから、この問題を解決しなければLPは成功しないのです。テープ・レコーディング以前の時代に、米コロンビアはどう考えていたのか。
 実際のところ、1940年代の初めより米コロンビアでは、オリジナル・レコーディングに78回転ではなく33回転40センチ径のラッカー・ディスクを使用していました。当然線速度が速くて音質の良い外周部のみを利用したのですが、10分位の録音は行っていたようです。この方法だと、交響曲などの場合、ひとつの楽章毎に録って行けば良いので、ある程度の問題解決にはなっていた、というのが答のようです。従って、「最初期の米コロンビアLPはSPからのダビングだから音は悪い」と決めつけてしまうのは早計ということになります。その後オリジナル・レコーディングはテープが中心となって行きます。
Posted at 11:17 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(0)

音の記録(5) [2008年08月10日(日) ]
左のジャケット写真は1972年にイギリスのArgoレーベルが作成した”THE WONDER OF THE AGE MR.EDISON’S NEW TALKING PHONOGRAPH”(邦題「蓄音機の歴史」)という2枚組のLPですが、レコードの創世記から電気録音の誕生までを音と資料で辿った興味深い内容となっています。1890年録音のナイティンゲールの肉声が聞かれたりするのですが、日本でもキングが丁寧な翻訳を付けて発売してくれました。(SLA-1035/36)

 










この写真は、旧吹込み(ラッパ録音)時代のHMV盤です。左は片面盤、右は両面盤ですが、表面と裏面のカタログ・ナンバーが異なっている(0719/0720)ことから見て、後から両面に編集したもののように思えます。0719/0720には、Made in Calcutta と刻印されていますが、カルカッタはSP盤の原料となるシェラックの産地として有名でした。

 ドイツ・グラモフォンの話にもどりますが、戦争の影響でこの会社は敵国資産として差し押さえられ、売りに出されることになります。英グラモフォン(HMV)との提携も切れ、海外輸出用にはニッパーのマークも使えなくなり、Polydorという商標と共に全く新しい苦難の道を歩むこととなります。が、結果的には、親会社との関係を絶たれたこの会社だけが、伝統ある「グラモフォン」という名前を引き継いだことになります。

 1920年代のレコード産業にとって、最大の脅威はラジオ放送の開始でした。米国でラジオの定時放送が開始されたのが1920年(この時点では、一日に一時間のみ)のことですが、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)は既に1919年には設立されています。このラジオによって、レコード会社は大打撃を受けますが、実はラジオの発明はレコードの歴史にも大きな変革をもたらします。マイクロフォンを使った電気録音方法の開発です。マイクロフォンによって電気信号に変換された音声が、真空管アンプによって増幅され、電波に乗って発信できるということで、この技術をレコード録音に応用することが当然のごとく研究され、実用化に成功したのがアメリカのベル研究所です。特許はベル研究所の系列下のウェスタン・エレクトリック(WE)社が取得しています。個人的には、このマイクロフォンを使った電気録音の開始というのは、いくつかのレコード関係のイノベーションの中でも大変重要なものだったと考えています。このおかげで、歌手は常にフル・ヴォイスで歌わなくてもよくなり、伴奏のピアニストも力の限り鍵盤をたたきつけることから解放されることになります。これは声量の乏しいポップス系のシンガーにとっても有利に働きます。ちなみに、マイクロフォン(初期のカーボンマイク)は1888年頃、2極管は1904年(フレミング),増幅作用を持つ3極管は1905年(フォレスト)に発明されています。
Posted at 07:17 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(0)

音の記録(4) [2008年08月02日(土) ]
 例のニッパーの絵を描いたのは、フランシス・バローという画家ですが、当初はグラモフォンではなくフォノグラフの絵でした。彼はこの絵をエディソン・フォノグラフ社に依頼されて描いたのですが、会社はこれを採用しませんでした。仕方なくバローはライバルのグラモフォン社に売り込むことになります(1899年)。「主人の声 (His Master's Voice)」というタイトルも、バローが名付けたものです。バリー・オーエンが、宣伝のためのストーリーを完成させます。

 『飼主を亡くしたニッパーは、部屋のすみから動こうとしない。が、「舞踏会のあと」というレコードをかけた時だけは、ラッパの前に座る。亡き飼主がよくこの曲を聴いていたので、ニッパーはきっと主人の声も聞こえてくると思って待っているのだろう。』

画家のバローには弟がいてニッパーという犬を飼っていたこと、この弟が亡くなったためにバローがニッパーをひきとったというところまでは事実ですが、後はオーエンの創作です。とは言え、人々のシンパシーを誘うこの話は、絵と共に一躍世界中に広まることになります。実は、バローというのはあまり才能に恵まれた画家ではなかったようですが、この絵のおかげで生活の心配をせずに済むようになったと言われています。

ドイツ・グラモフォン社というのも、今は全くの別会社ですが、もともとは英グラモフォン社の子会社として、1898に設立されています。当初はレコードのプレス工場(ハノーヴァー)でした。左のレコードは、そのドイツ・グラモフォンが録音した、アルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニーによるベートーヴェンの第五です(ちゃんとニッパー・マークが付いています)。ニキシュはフルトヴェングラーの前のベルリン・フィルの常任指揮者で、この録音は1913年に行われています。管弦楽の最初のレコードではありませんが、世界最高水準の演奏家によるベートーヴェンの全曲録音としては、始めてのものです。とは言っても、旧吹込み時代の管弦楽の録音は極めて困難であり、ラッパがいくつか連結されて録音室につながれた、といった記録が残っています。「アコースティック録音時代のマルチ・マイク方式」とでも呼ぶべき仕組みだったわけです。楽器もヴァイオリンなどは普通の楽器ではだめで(音が拾えない)、楽器本来のボディに替えて金属のラッパを取り付けた「シュトロー式ヴァイオリン」が用いられていました。
ニキシュの指揮ではありませんが、上の写真が当時の管弦楽の録音風景で、ザイドラー・ウィンクラー指揮のドイツ・グラモフォン管弦楽団です。ホルンもベルが正面を向いた特殊な楽器のようです。
譜面台もなしに、団員がすし詰め状態で演奏しています。残念ながら、この頃の管弦楽レコードは、文字通り「記録」としての価値は大きくても、いかにも音が貧し過ぎ、観賞用としてはつらいものがあります。やはり、オケものは電気録音以降でしょう。
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音の記録(3) [2008年07月26日(土) ]
レッド・シールを考えたのは、パン・ラッパポルトというロシアのレコード商人です。ペテルブルクでレコード店を経営していた彼は、「世界最高の歌手に吹き込ませるためには、そのレコードが明らかに他とは違うということが一目で判らなければならない」という発想から赤ラベルを思いつき、グラモフォン社のガイスバークを説得します。ガイスバークは、当時一流の音楽家を吹込みのためにラッパの前に立たせることが困難であったため、各地を転々としながら現地で録音をとる、といった仕事をしていた男です。最初期には、歌手たちのピアノ伴奏などもやっていたようです。このアイディアは実を結び、フョードル・シャリアピン(帝政ロシア時代の偉大なバス歌手)が赤ラベルの第一号アーティストとなります。写真左端のひげ男がガイスバークで、右から2番目の大男がシャリアピンです。
 一方、1902年の3月にガイスバークはイタリアでエンリコ・カルーソ(スカラ座の歴史的テノール歌手)の録音に成功します。カルーソは法外とも思える報酬を要求しましたが、結果的には会社に大きな利益をもたらすことになります。右端がカルーソです。
こうした当時の大歌手たちが吹込んでくれたために、他のアーティストも録音を許諾するようになり、上流階級から徐々にレコード音楽が普及して行くことになります。しかしながら当時の吹込みは、今日では想像もつかないほど苦労が多かったようです。アーティストたちもステージでの生演奏に慣れているので、観衆のいない殺風景な部屋でラッパを前にしてとまどったり、いくら「ラッパから離れるとうまく録音できないから」と言われても、ステージでやる時と同じように演技を始めてしまう歌手もいたそうです。また、トランク一杯に自らのステージ衣装を詰め込んで、録音会場に現れる者もいたそうです。
何せTVはおろかラジオすらなく、アーティストはステージで歌い、演奏するということが唯一無二の音楽行為という時代だったわけですから、さもあらんという気がします。100年も前の話ではありますが、こういった先達たちの努力のおかげで、今の我々もこの業界で飯が食えるということを考えると、時に古のレコードにも耳を傾けようという気持ちになります。例えばカルーソなどは、旧吹込みの録音を通しても、もの凄い声の持ち主だったことが十分に伝わって来ます。
 1903年には、英グラモフォン社と米ビクター社との提携が結ばれ、ビクターはヨーロッパのレッド・シール盤を発売できることとなります。また、1904年頃より両面盤が発売され、徐々に片面盤は姿を消して行くようになります。
Posted at 13:55 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(0)

音の記録(2) [2008年07月19日(土) ]
ベルリナーの平円盤レコードが、あらゆる点でエディソンの円筒式に優っていたのかと言うと、そうではなかったと思います。明らかに円筒式の方が優れていた点として「線速度が一定」ということが挙げられます。平円盤は「回転数一定」型なので、線速度が遅くなる内周部に於いて音質の劣化が避けられない、という弱点があります。この問題は、SP時代が終わり、LP時代になっても解決されませんでした。

 更にこの頃の蓄音機(グラモフォン)には重大な欠点がありました。手回し式であったため、レコードを聴いている間はハンドルを回し続けなければならなかったのですショック。この問題を解決したのが、エルドリッジ・ジョンソンで、彼はグラモフォンにゼンマイ仕掛けのモーターを組み込みます。ジョンソンは後に(1901年)ビクター・トーキング・マシン社を設立することになります。
上の写真は、最初期のグラモフォン・レコードで、見にくいと思いますが、BERLINER’S GRAMOPHONEとの表記と共に演奏者(ヴァイオリンのフーベルマン)の署名があります。この時代はニッパー・マークではなく、バリー・オーエンの発案による天使のマーク(レコーディング・エンジェル)でした。
これは、我家にある最も古いレコードです。G&T盤と呼ばれているもので、グラモフォン社がその社名をしばらくグラモフォン・アンド・タイプライター社としていた時代(1900年〜)のものです。当然、どちらもラッパ吹込みの片面盤です。万一レコード事業が失敗に終わっても、タイプライターで食べていければという戦略だったのですが、結局駄目になったのはタイプライターの方だったようで、1904年にはもとのグラモフォン・カンパニーにもどっています。実は、このタイプライター事業に失敗した責任をとり、バリー・オーエンは辞職して米国に帰ることになります。
 また、平円盤レコードの素材選択もなかなか大変だったようです。最初期には硫化ゴムやエボナイト(理科の実験を思い出します)などが試されましたがどれもうまく行かず、最終的にシェラックにたどり着いたようです。このシェラックというのはラック虫という虫の分泌物で、SP盤は、このシェラックにコーパルゴム(他の原料を粘着させる)、石粉やクレー(硬度を増す)、コットンやフロック(強さを増す)、カーボン・ブラック(黒さを出す)などによって作られています。しばらく後の話になりますが、日本ではコロムビアが1924年頃より「ニュー・プロセス・レコード」なるものを発売しています。これは、良質の樹脂を塗った紙で中間材料を被うというサンドイッチ構造になっており、割ると紙が出て来ます。音はきれいだったようですが、経年変化によって盤が波打ったり、紙の「コーコー」という音が出たりすることもあり、口の悪い人は「コーロンビア」などと言っていたそうです。それでも、ビクターがこの技術を使いたいがために、HMV録音のフルトヴェングラーやワルター(日本ではビクターが発売権を持つ)をコロムビアに譲った、という話を聞いたことがあります。
Posted at 14:23 | 音の記録 | この記事のURL | コメント(0)

ラヴェルのパヴァーヌ [2008年07月13日(日) ]
亡き王女のためのパヴァーヌ
クリュイタンス/パリ音楽院管弦楽団

冒頭のメロディは、何の楽器の音だと思いますか?
「音色からするとサキソフォーン?」と思われる方も多いでしょう。
実はこれ、ホルンなんです。
吹いているのはルシアン・テヴェという往年のフランスの名手です。かつてのフランスのホルン演奏は、こういうものでした。
ビブラートをたっぷりかけた甘美な音色は、一度耳にしたら忘れられないものになります。麻薬のようなものです。ドイツ系の指揮者でもクナッパーツブッシュなどはこの音色を好んでいたそうですが、インターナショナル化の流れにのみ込まれ、このスタイルは消滅してしまいました。

この演奏に使われている楽器は、セルマー社(クラリネット等の木管楽器が有名)のもので、機構も現代の主流であるロータリー・バルブではなく、ピストン方式です。デニス・ブレインも1950年頃まではこのタイプのホルンを使っていましたし、ウィンナ・ホルンも見た目はロータリーっぽく見えますが、ピストンです。ロータリーに比べてメンテナンスが容易で、スラーが滑らか、アクションが軽いので軽快なフレーズが吹き易い、といった特徴がありました。更に驚きの特徴が、第3バルブにあります。ちょっと細かな話になりますが、通常ホルンのバルブは、これを押すことによって管が長くなり、音程は低くなります。第1バルブは半音2つ分、第2バルブは半音1つ分、第3バルブは半音3つ分です。従って楽器本体の調性(何も押さない状態)がFだとすると、
E,Es,D,Des,C,Hのナチュラル・ホルンを代替出来ることになります。ところがセルマー社のホルンは、第3バルブを押すと半音2つ分上がるようになっています。第3バルブだけは、押さない状態で付け足し管を経由する(管が長くなる)、押した状態で付け足し管をショート・カットする(管が短くなる)という構造になっています。この3番上昇管システムというのは、ラヴェルのパヴァーヌ演奏の場合、とっても大切なポイントになります。



パヴァーヌのスコアを見ると、ホルン・パートは「2Cors simples en sol」と書かれています。つまりG(ト調)のナチュラル・ホルンが指定されており、ラヴェル自身はバルブのない自然ホルンで演奏することを想定していたことが判ります。このGが問題なのです。本当にナチュラル・ホルンで演奏するのならそれでいいとして、より近代化した楽器を使い、尚かつラヴェルの意図を活かすためにはどうしたら良いのか。そのためには、バルブを操作して楽器をGの状態にする必要があるのですが、当時のF管シングル・ホルンだと、それは「絶対に」できない相談なのです。上述したように、FからHまで下降して行く中にGは含まれていないからです。ところが、3番上昇管システムの楽器ならば、3番バルブを押すと半音2つ分上がるわけですから、これでGの調性にセットすることが出来るのです。つまり、3番バルブを押し続け、それ以外の一切のバルブ操作をしない状態で演奏することにより、ラヴェルの意図通りの効果が得られることになります。当時、これが出来たのは、セルマー・ピストン・ホルンしかなかったのではないかと思います。

この素晴らしいホルン・サウンドも、パリ管弦楽団設立の頃から雲行きがおかしくなり始めます。テヴェ自身も、このパリ管に招かれたがそれを断ったと言われています。その後の歴史を知る我々としては、テヴェの判断は賢明なことだったのかなとも思います。例えば、バレンボイムのように「ピストン・ホルン禁止令」を出す指揮者が出てくるなど、この楽器は迫害されてしまったからです。


現役盤はTOCE−14067(EMI)です。
Posted at 11:31 | ホルン | この記事のURL | コメント(0)

音の記録 [2008年07月12日(土) ]
 エディソンによる蓄音機の発明は1877年のことですが、厳密に言うとエディソンの発明に先立ち、1877年4月30日に音の記録と再生方法を考えつき、フランスの科学アカデミーにドキュメントを提出した男がいました。シャルル・クロ(Charles Cros) がその人ですが、彼は残念ながらアイディアを実行に移す資金がなかったため、実際に発明することはできませんでした。フランスに「ACCディスク大賞」というのがありますが、これは悲劇の発明王シャルル・クロにちなんで名付けられたものです。(Academy Charles Cros) ところで、エディソンが発明したのは、平円盤レコード(グラモフォン)ではなく円筒レコード(フォノグラフ)でした。彼は1877年12月24日に特許を出願し、翌年2月19日にこの特許がおりると、4月24日にはエディソン・スピーキング・フォノグラフ社を設立し、会社は本格的に機械の製作を始めます。これが、世界初のレコード関係の会社ということになります。
もっともこのフォノグラフというものは、錫箔の薄片を巻き付けた円筒に音を録音し再生するというもので、エディソンの会社はこの機械を売るというハード面を主目的としていました。従って、録音された媒体(ソフト面)を主商材とする今のレコード会社とはちょっと違います。子会社のコロムビア・フォノグラフが1889年頃より音楽を入れた円筒レコードを積極的に販売し始めているので、このあたりがソフト販売会社の第一号になるのでしょう。エディソン自身は、この機械の用途を10項目挙げていますが、音楽の再生は「口述速記」,「盲人用の本」,「発生・話術の教育」に続く4番目にやっと出てくるといった位置づけでした。
 一方、平円盤レコードはベルリナーによって1887年に発明されました。
ベルリナーはドイツ人ですが、1870年には渡米しており、没したのもワシントン(1929年)です。彼は、エディソンの垂直カッティングから水平カッティングに切り替え(レコードに対して溝が上下ではなく左右に動く)、複製の容易な平円盤を発明したわけですが、発明家としてはエディソンに及ぶような人間ではありませんでした。しかし、エディソンの関心事が専ら自身の発明によって金を稼ぐことであり、音楽や音楽家に対してさしたる興味を持たなかったのに対し、ベルリナーが優れていたのは、「グラモフォンを売るためには、良いレコードをつくらなければならない。良いレコードをつくるためには、立派な音楽家の協力を得なければならない」と考えた点でしょう。ベルリナーは1895年に自身のベルリナー・グラモフォン・カンパニーを設立し、ベルリナーによって英国に派遣されたウィリアム・バリー・オーエンを立役者として英グラモフォン・カンパニーが、1898年に誕生します。

左は研究段階でのグラモフォン、下は1894年頃の手回し式グラモフォンです。
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